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スワミ・チダナンダ 105回目の生誕祭に際して 

アシュラム(リシケシ、シバナンダ・アシュラム)からは、スワミ・チダナンダの第105回生誕祭が執り行われたとお知らせを頂きました。


スワミ・シバナンダの後を継がれ、長らくアシュラムの中心的存在であったスワミ・チダナンダは、今でもリシケシの、ヨーガの生んだ悟った魂として世界中から尊敬を集めています。


2016年がちょうど100周年祭でしたので、当院院長が日本での生誕祭実行委員会を仰せつかり、アシュラムから、スワミ・ヨーガスワルパナンダ(現アシュラム総長)をお招きして10日間程度の講座を行いました。


以下は、その際に作成したホームページに書いた、スワミ・チダナンダの紹介の文章です。






スワミ・チダナンダについて


スワミ・チダナンダ


スワミ・チダナンダは、院長の友永淳子のヨガの師である。


インドのオーソドックスなヨガ道場では、ヨガには、身体を動かすヨガと、厚く神を敬うヨガと、奉仕をするヨガ、さらには頭で理解するヨガを学ぶ。


スワミ・チダナンダは、そういった道場の中でも、世界的にも有名なシバナンダ・アシュラムの総長であった人だ。


ヨガの師は、ひげを生やしてヒマラヤの洞窟で瞑想している像が一般的かもしれないが、

そんなことはない。


もちろん、そういった修行者も大勢いるけれども、師の教えを守って、広めるためにアシュラムを作り、管理、維持して、その教えを出版して、世界に講演にでるヨガの師も大勢いる。


スワミ・チダナンダは、そういったヨガの修行者だった。



スワミ・シバナンダ


シバナンダとチダナンダ。


シバと、チダ、二文字も違うのだけど、母音が一緒なので最初は少しややこしい。


シバナンダが師匠で、チダナンダが弟子。(上の写真の左がシバナンダ、右がチダナンダ)


これらは、出家の際に師からもらう名前で、その前は、それぞれ、クップスワミと、シュリダラ・ラオといった。


スワミ・シバナンダ(チダナンダの師)については、ヨガをかじったことのある人なら聞いたことがあると言う人も多いかもしれない。


南インドに生まれ、英領マレーシアで医師として働き、帰国後に出家して、ある行者の弟子となり、ヨガの修行に励んだ人。


この人は、リシケシ町の上流の粗末な小屋で修行をした。


聴診器とカバンをもって、村の病人を助けながら、修行にあけくれ、43歳のときサマディーに至ったとされる。


今、ヨガが世界に広まっているのは、この人に負うところが大きい。


古くからの経典を英語で解説して、生涯に300冊以上の本を書いた。


カーストや、性別、国籍に関係なく、ヨガを教えた。


それまで、身体を動かすヨガは、他のヨガよりも劣ったものという人も大勢いたのに、

身体を動かすヨガを、他のヨガと同等に重要なものとして、自ら学び、広めた。


とにかく人気のあった人で、リシケシが今のにぎわいを見せているのも、この人の貢献が大きい。


インド中から大勢、特に若者が彼の元に集まった。


そこにできたのが、シバナンダ・アシュラム。


今も残る、ヨガの修行場。






シバナンダに出会うまで



シュリダラ・ラオ(チダナンダの出家する前の俗名)は、1943年に出家することを決めて、

スワミ・シバナンダ(1887-1963)の元へおもむく。


それまでは、どんな人生を送ったのか。


「人と人がこの世で出会うということは、過去の生でのカルマの影響を受けています。出会うということは、この宇宙の妙なる法則の引きあわせなのです。その出会いというのは、非常に珍奇な場合があります。スワミ・ラムダスに出会い、その後、グルデブ・スワミ・シバナンダに出会った私の精神的な旅も奇異なものだったと思います。」


シュリダラ・ラオは、1916年9月24日に、母の実家のある南インド西岸、アラビア海に面したマンガロールに生まれた。


五人の子供のうち、最年長の男の子だったので、非常に可愛がられた。


父はマドラスに住んでいたが、母の実家があまりに懇願するので、しばらくの間、マンガロールで育つことになる。


9歳のときに母が25歳の若さで亡くなる。


ちょうどそのころ、スワミ・ラムダス(1884-1963)の“In Quest of God”(『神の探求』未邦訳?)に出会い、読みふける。


「『神の探求』は、私の知らなかったインドについて、まったく新しい光景を見せてくれた。ラーマクリシュナや、カーリー寺院について、ケダルナートや、ベドリナートという聖地について。また、サマディーというものがあるということにも知ることが出来た。」


その本を読んでから、スワミ・ラムダスに会いたいという衝動にかられる。托鉢に訪れる修行者が来る度に、ラムダスの本にある写真を見せて、どこかで会ったことがないか、どこにいるか知らないかを聞く。ある修行者から、カナンガッドという、マンガロールの南の町にいることを教わる。


1932年、16歳のときにマドラスに移る。マドラス(現在のチェンナイ)は、インドの東岸、ベンガル湾に面しタミル語の地域。マンガロールで使われるカンナダ語しか知らないシュリダラ・ラオは英語で授業を行う学校に入り、第二外国語でサンスクリット語を学ぶ。


姉の出産後、実家から嫁ぎ先に戻る際に、ふとしたきっかけから、カナンガッドに立ち寄り、スワミ・ラムダスに会うことが出来た。


このころ、ラーマクリシュナの生誕100周年祭に触れたこと、そして、スワミ・ラムダスに再び出会えたこと、そして、新聞に、ラマナ・マハリシが17歳で出家したと知ったこと、そして、その頃、続々と出版されていた、スワミ・シバナンダの本に触れ、出家して、修行をして、自己の発見、実現へと進みたいという気持ちが大きくなった。


1936年にマドラスのロヨラ大学に入学。ミッション系のこの大学でキリスト教の影響も受ける。


1941年、日本軍がカルカッタを空爆。英国はインドの東岸一帯に避難勧告を出し、家族はマドラスから、一族の所有していたコインバートルの家に移る。


「当時私は25歳になったばかりでした。まるで悪夢のような体験でした。今になっても、どうやって私たち一族が、昔から住んでいたマドラスの家からコインバートルまで移動できたのか思い出せないのです。」


コインバートルで、大家族の中で、シュリダラ・ラオは悶々と日々を過ごした。


避難生活で健康のすぐれなかった父をはじめ、年下の家族の面倒を、長男として、この先ずっと見ていくのか。


「夢にみてきた出家生活をもうこの先一切出来ないのではないかという恐れに、夜中にはっと目覚めることがありました。」


「もうこれ以上後伸ばしには出来ないと思い立った私は、作戦を立てました。ラマナ・マハリシと、スワミ・ラムダス、そして、スワミ・ラジェシュワラナンダジ、さらには、シュリ・マラヤラ・スワミジに手紙を書いて、出家をしたい旨伝えました。スワミ・シバナンダジにはそれ以前から何度か手紙のやりとりをしていました。」


「そして、家族が大きな落胆をしないように、まずは、近くにある聖者のアシュラムに泊らせてもらい、そんなに長くはいないようなそぶりの手紙を書いて家族に送りました。そしてもう少し遠く、もう少し遠くのアシュラムへと旅を続けました。当時、ヒマラヤと言えば、南インドからは本当に遠いところだったのです。そして、1943年のブッダの誕生日、5月19日にリシケシに着きました。アシュラムに着いてしばらく待つと、もう日暮れでした。ランタンをもった弟子を連れたグルデブ・スワミ・シバナンダジが下りてきました。私は床にひれ伏して挨拶をしました。「この男は?」と、グルデブは弟子に訊ねました。「手紙を送ってきていた、マドラスのシュリダラ・ラオです」、そう弟子は応えました。グルデブは、親切に起きあがるようにおっしゃられました。そうして、私は自分の目的地に来たことを感じました。神から祝福を得た気持ちになりました。これが私の肉体が旅した最高点でした」






アシュラムでのチダナンダ


到着後、まずは、アシュラムの運営していた診療所で仕事をする。


スワミ・シバナンダは、人に奉仕をすることを、最大のヨガの修行としていた。


シュリダラ・ラオは、癒しの手を持つ人として、とても人気があったらしい。


1944年、あるいは、45年。ある来客を迎えていたグルデブは、突然、その来客に言いました。「私の後継者が見つかったよ。彼だ。」その指先に、後のスワミ・チダナンダ、シュリダラ・ラオが沐浴している姿があった。


そして、1949年には、事務局長となり、シバナンダの元で出家の儀式をおこない、シュリダラ・ラオは、今、スワミ・チダナンダとして知られる出家となった。


出家の後


1959年から1962年には、アメリカへ講演旅行を行う。


1963年に往生をとげたシバナンダの後をついで、シバナンダ・アシュラムの総長となった。


その後も世界で講演をつづけ、世界の宗教会議や、宗教間対話のリーダーとなる。


また、ウッタルカシの地震、オディッシャのサイクロン災害、アンドラプラデーシュやタミルナドゥでの津波災害などでは先陣をきって救援活動を行った。


同時に、ハンセン氏病患者の救済につとめ、ウッタラカンドやオディッシャに療養所を建てた。他にも、病院や学校を建立し、なにより、シバナンダ・アシュラムを整備して、世界中の修行者がいつ訪れても快適に過ごせるよう手を尽くした。


2008年8月28日に逝去。


なきがらはガンジス河に流され、リシケシ中が見送った。





(スワミ・チダナンダとスワミ・ヴィマーラナンダ)



私たちとチダナンダ


友永淳子にとっては、スワミ・チダナンダはヨガの師である。


そして、友永淳子は、私たちのヨーガの師であるので、スワミ・チダナンダは、師の師にあたる。だから、ここからは、スワミ・チダナンダジ、あるいは、スワミジと、敬称である、「ジ」を付け加える。


さて、チダナンダジは、日本に四度訪れているらしい。


1984年、1985年、そして、1988年と、1991年の四回とのこと。


(私たちの記録では、88年と91年だけなのだが、関西でヨガ教室をひらいていらっしゃる、岡泰佳幸先生のサイトによれば、加えて、84年と85年にも来日されているとのこと。このあたりのことは、もう少しよく知っている人に教えて欲しい)


友永淳子は、78年、80年、82年、91年、95年、99年、2000年、03年にアシュラムに伺った際にスワミジに会っている。


まだ小学生くらいのころから、家にお写真が飾られていた。


とにかく、ニカッと、こんなに純粋に笑えるものかと思うほどの笑み。


そして、大きな手。


今思うと、私たちの教室と私たちの家族は、いつもスワミジの笑顔に包まれてきたような気がする。






(スワミ・チダナンダの書かれたご本「幸福への12の鍵」を、院長が訳しました。ご本をお渡した瞬間  長浜氏撮影)

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