院長コラム
「わたし」の取り扱い説明書 その10
「生命エネルギーの調整=プラーナヤーマ」
話/院長・友永淳子
文/副院長・友永乾史
座ること(アーサナ)ができると、自然と気(プラーナ)の整った状態(プラーナヤーマ)がやってくる。
逆に言えば、プラーナが整うので、アーサナが可能になる。
極端に言えば、プラーナが整わないと、少しでも、椅子にだって、床にだって座ることは難しい。
病を経験した人、あるいは、自分を根底から揺るがすような重篤なニュースに触れたことのある人、もしくは、子育てをした人なら、よく分かってもらえると思う。
「気」が「病」んでいるときは、床に臥すしかない。
何か、大きく胸を騒がすニュースに触れると、わたしたちは「気もそぞろ(慢ろ)」になって、「居ても立ってもいられなく」なる。
赤ん坊は、何度も何度も転んで、やっと座ることができる。
少しでも身体を座らせようとするとき、わたしたちは、それなりに高度な集中力=プラーナの力を使っている。
骨盤の一番下にある座骨が、床、あるいは椅子の座面を押して、骨盤から背骨を支えるさまざまな筋肉がちょうどよいバランスをとって、やっと座ることができる。
この、座るという状態を、「安定して、快適なもの」にしていくのが、アーサナの練習であって、それは同時に、プラーナヤーマの練習も伴う。さまざまに筋肉をのばし、ほぐし、整えて、それに呼吸を伴わせて、自分の状態の変化を見る。それを繰り返し、繰り返し行うことで、初めて安定して、快適に座ることができる。
Ⅱ-49 Tasmin sati shvasaprashvasayorgativichhedah pranayamah
プラーナヤーマ(生命の力の調整、regulation of life force)は、吸気と呼気を調整して生命力を調整するものであり、座り方(アーサナ)をマスターしたうえで練習をするべきである。
上手に身体がほぐれて、筋肉が調整されれば、雑念の湧く源となる、心身の緊張もよくほどける。
アーサナがしっかりしていれば、雑念が湧いても、それに絡み取られることなく、少し距離をおいて眺められる。
逆を言えば、身体の緊張が残ったままでは、呼吸が荒く、気の流れも一定でないので、雑念が湧きやすく、さまざまな思いにからめとられてしまいやすくなる。
心と身体。さらに、心と呼吸、つまり、心とプラーナはお互い、密接な関係にある。
だから、呼吸を、プラーナを上手にコントロールしていくことで、心もコントロールできる。
その発見をしたのが、わたしたちの学ぶヨーガの先達たちだった。
ここまでは、世界中の様々な伝統が自覚的に、無自覚的に取り入れている。
あらゆる伝統や信仰には、必ず唄や踊り、儀式があり、それらは姿勢と呼吸のコントロールを要求する。
一とおり、唄い、踊れるようになると、その人の心は一定の安定に達成する。その中でも、とびぬけた人々が師として、達人として崇められ、その人は、共同体の中で指導者の役割を与えられる。
ヨーガが他の伝統と一線を画すのは、プラーナヤーマの果て、これから先の階梯において、自分の心を観察する対象としてとらえて、それをよく観察して、心の奥深くの仕組みをまるで解剖でもするようにして、手に取って見せてくれ、その扱い方を微に入り、細にわたり伝えてくれているところだ。
ここが垣間見えてくると、山を登るとき、遠くに山頂が見えてきたときのように、がぜん日々のヨーガの修行が面白くなってくる。なんのための、アーサナなのか、プラーナヤーマなのか、その重要性が沁みてくるように伝わってくる。
Ⅱ-52 Tatah kshiyate prakashavaranam
そして、(プラーナヤーマを身につけて)内なる輝きを隠していた覆いが取り除かれる。現実(the reality)を覆っていたヴェールとなっていた無知が取り除かれ、現実が輝く。
Ⅱ-53 Dharanasu cha yogyata manasah
そうして、心はやっと集中することができる。
Ⅱ-54 Svavishaya samprayoge chittasvarupanukara iva indriyanam pratyaharah
(ここで)感覚は、自分たちを、それらの対象物から引き離して内に戻ることで、心に従う。これがプラティヤハラである。(もともと、感覚の対象まで心が遠く離れていってしまっていたのに、プラーナヤーマを行ずることによって)心がそれらの感覚や、感覚の対象から、自分自身を引き離して、自らの内へ引き戻しているので、感覚器官(indriyas)は感覚物との接触に溺れることはもうなくなる。この「引き戻すこと」をプラティヤハラという。
次号では、この、感覚器官の制御(プラティヤハラ)についてお話したいと思う。
*写真は、鹿児島の蒲生の大楠。推定樹齢1500年! 大きな存在に出会うと、自然と呼吸が大きく、プラーナヤーマがやってきますね。
4月からのプログラム
院長のお話会
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5月1日(土)16:30 -17:30
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7月10日(土)16:30 -17:30
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9月11日(土)16:30 -17:30
参加費無料。オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。
ヨーガニドラ ワークショップ 須田 育
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4月24日(土)16:30-17:30
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6月26日(土)20:00-21:00
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8月28日(土)21:00-22:00
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参加費1500円。オンラインでの開催です。yogatomo.online よりお申込みください。
編集後記
「宙ぶらりん」を楽しむ力
昨年からのコロナウィルスのおかげで、わたしたちは「宙ぶらりん」な状態に置かれることが多くなった。いつ、どこで、何をする。結構前から決めていたことが、一旦全部さらになった。
宙ぶらりんは、急にその状態に置かれると、どうにも心地の悪いものだけれども、宙ぶらりんでいながらのバランスの取り方を覚えると、これはこれで悪くないような気にもなる。
少し俯瞰をして見ると、わたしたち人類は食糧生産にいそしみだした紀元前の1万1000年~8500年ごろから、宙ぶらりんであることを少しずつ手放すようになったと言えるだろう。種もみを手元に残して、種をまき、刈り取る。そしてまた、種を残す。
それまでの、狩りをして、食べられるものを探しまわる生活から、毎年、同じところで、決まったサイクルを繰り返す定住生活が始まった。
その果て、現代では、わたしたちは皆、平均寿命まで生きると漠然と信じているし、数か月後ならぬ、数年後、あるいはその先の収入の心配をしている。
こう見ると、まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」で、安心の裏には、ぴったり不安がくっついているのが見える。
こうした、いわゆる「心の働き」を理解すると同時に、「安心」も「不安」もない、「絶対な安心」の世界を体験して、そこに住んでしまおうというのがわたしたちの行じているヨーガだ。
なかなか、そこの住民になるのは難しいけれども、一日に1回でも、ヨーガの時間にそこを訪れることで、今日を生き抜く力を与えられる。
そんな、 感謝のお言葉を、たくさんの方から頂戴しました。どうも、有難うございます。
引き続き、ヨーガとともにご一緒して参れればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。